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さわやかな春風が吹きぬける午後の校舎。
午後一番の授業が始まったばかりの廊下は、シンと静まり返っている。
遠くの音楽室から聞こえる微かなピアノのメロディーにのせ、
そんな廊下をボーっと通り過ぎる少年がひとりいた。
授業におくれたのか、はたまた午後一番のエスケープなのか。
色素の薄い銀糸の髪がふわりと風に舞う度に、
綺麗で真っ白な肌が見え隠れする。
ふと、微かな木漏れ日が差し込むと、
不思議なことにその光は難なく彼の身体をすり抜けた。
危うく暈けた透明なシルエット。美しくも儚い、幻の如き姿態。
それは彼がこの世の生き物ではないことを暗に示していた。
その上品な白いブレザーの胸元には『T』と印した学年章が光っていて、
彼が学園の1年生であることを物語る。
何かよほど心惹かれるものがあるのか。
積年の恨みとか愛情のもつれとか、
ごく一般的に幽霊がこの世をさ迷うには
それなりの事情がありそうなものだが、
不思議と彼からはそんな悲壮観を感じさせない。
きっと何か他に、よほどの理由があるのだろう。
足音ひとつたてずに歩み寄る先には、
胸の学年章とは異なる3年の教室があった。
彼はその教室の前で立ち止まると、その大きな瞳に希望を輝かせ、
ひょいと中を覗き込んだ。
「ここだよ、この教室!」
可憐な顔に満面の笑みを浮かべる。
そして何の躊躇いもなく教室の中へと入り込んだ。
本来なら授業中に他の生徒が入り込んだら教師が制止するはずだが、
予想通り彼には何のお咎めもない。
というより、誰ひとりとして彼の存在に気づいていないのだ。
そんな中、彼は窓際最後列の席に目をやると、
嬉しそうにある人物を指差しては歓喜の声をあげた。
「見ぃつけたっ! 神田っ!」
その声に、呼ばれた相手は一瞬ビクリと肩を震わせたように見えたが、
すぐに何もなかったように授業へと意識を戻す。
「あれ? 今一瞬ボクのこと気がついた?
って……んなことある訳ないよね?」
まるで一人芝居のように自分の台詞を打ち消すと、
彼はさっさと神田の机の傍へやってきて腰を下ろす。
そしてその端に肘をついて見上げると、
誰もが憧れる貴公子の姿をうっとりと眺めだした。
「……いつ見ても……綺麗な顔してるよなぁ……」
ほぅ…と短い溜息を漏らすと、満足げにその表情を緩ませる。
学園のプリンスこと、黒き貴公子の名前は神田ユウといい、
関東随一であるお坊ちゃま校、聖セシュール学園の超エリートだ。
世界有数の財力を誇るという神田グループの御曹司でもあり、
頭脳明晰、眉目秀麗、
何をしても右に出るものはいないという天才青年だった。
無論、学園外での人気もずば抜けていて、
本人の意に反していつも大勢の取り巻きに囲まれているため、
普通の人間はおいそれと近寄ることすら出来ない。
「こうでもしないと近くで見ることも出来ないっていのうは、
本当、情けないよなぁ……」
ははは…と苦笑いしながらも傍を離れようとしない彼は、
同じ聖セシュール学園の1年生、アレン・ウォーカーだ。
神田と同じ高校生とは思えない華奢な創りで、
少女のような美しい顔立ちをした彼は、『銀白の天使』と呼ばれ、
学園内でも評判の美少年だった。
彼は欧州貴族の末裔に生まれながら、
病弱な体質のせいでほとんど外を出歩くことも出来ないという、
実に哀れな境遇の持ち主だった。
母は日本の華道家元の娘で、日本贔屓な貴族の父と出逢って恋に落ち、
その結果としてアレンを儲けた。
彼には2つ年上のラビという兄もいたが、
頭の良さといい、体力といい、
なにもかも兄が先に持って生まれてしまったかのようだった。
貿易会社を営む父はほとんど日本におらず、
海外を転々とする生活だったため、アレンの体調を案じた父が、
彼が生まれると同時に二人を日本にいる母親の実家に預けたのだ。
だからアレンはその容姿によらず、生粋の日本人と言ってもいい。
父の影響で英国式マナーを嗜む以外は、
祖母の影響で純和風の生活を強いられていたからだ。
アレンが暮らす家は、華道家元総本家ということもあり、
敷地だけで何千坪もあるという豪邸だった。
しかしながら、女性主体の華道の世界には、
見た目の華やかさとは相反して厳しい現実の世界がある。
愚痴やわがままを言うことをはしたないものとし、
慎ましい内面の美を花で表現する世界は、
男性のアレンにとっては生易しいものではなかった。
本来なら長男である兄が家元の後継者として選ばれるはずだったが、
そこが貴族と良家の婚姻の因果たる所だ。
兄のラビは父の会社の後継者として約束されており、
弟のアレンは将来家元の座を継ぐ者として、
一族の間で暗黙の約束を交わされていたのだ。
「俺には、華道の家元なんて窮屈な役はムリなんさ。
アレンなら手先も器用だし、感受性も豊かだかんなぁ……優しい性格が、
まんま花を活けるのに向いてるさぁ……」
ラビはいつもそう言いながら、大きな掌でアレンの頭を撫でる。
「そんなことはないよ……
ラビはいつもそうやってお稽古逃げ出しちゃうんだから……」
不服そうに唇を尖らせてみても、彼には何ら効果ない。
だが、ラビは知っていた。
アレンの内面が、いかに危うく脆いガラス細工のようなものなのかを……。
幼いころから現家元である祖母に厳しく躾けられたアレンは、
辛い感情を表に出すことが出来ず、
ストレスをどんどん内側へ溜め込むようになっていた。
もともと古い伝統を重んじる家系であるのに、
その娘が異人と恋に落ちた挙句産み落とした異端の子として、
屋敷の中ではいつも攻撃の対象にされていたのだ。
明らかに日本人とは言い難い容姿に、
あちこちに見え隠れする火傷の跡。
そんな子供が将来の家元候補だというのだから、
下世話な噂話を好む連中には事欠かない。
まだアレンが幼いころの話だった。
彼の居る離れの部屋に、何者かが火を放った。
おそらくは巨額の財産を狙った、
後継者狙いの分家の仕業ではないかと囁かれたが、
それも確たる証拠のないまま、火事は不審火として処理された。
かろうじてラビに助け出され一命を取り留めたものの、アレンはその火事で、
左腕と顔に酷い火傷を負ってしまったのだった。
十年近くたった今、顔の傷はほとんど気にならない程度まで回復した。
だが左腕の皮膚は酷く焼け爛れてしまったため、
未だ深い傷となって残ったままだった。
季節の変わり目や、体調の悪いときなどは、
古傷が疼く様に痛んで彼を苦しめる。
アレンにとって、見た目華やかなお屋敷での生活は、
ある意味監獄のようなものだった。
そんなアレンの身を案じた父が、
アレンの護衛にと叔父であるティキ・ミックを屋敷によこしたのも、
この事件が発端だ。
悲惨な事件の後、ラビのアレンに対する過保護さも倍増した。
彼らは常にアレンの身を案じ、溺愛していた。
いつもさりげなくアレンの傍に身を寄せる美形二人と、幼い後継者候補。
周囲の好奇の眼差しはいつもアレンへと注がれた。
厳格な家元である祖母は、事あるごとにアレンの母を叱った。
だから自分が不始末を仕出かせば、母親が嫌な思いをする。
心優しいアレンは、母が悲しむことを何よりも恐れ、
常にいい子であることを意識するようになっていった。
「アレン……あなたは本当にいい子。
誰が何て言おうと、私の自慢の息子だわ……」
嬉しそうに目を細めては、頭を撫でる母。
そんな母親の笑顔を守りぬくためなら、
どんな辛い思いも厭わないと、アレンは心に決めていた。
だから、周囲の人間にどんなに嫌なことをされても、じっと耐えた。
泣き言ひとつ言わず、常に心配かけまいと笑顔を絶やさなかった。
それが体力のない身体に災いしてしまったのだろう。
いつしか彼は、頻繁に高熱を出しては、寝込んでしまうようになる。
アレンのもっぱらの楽しみは、
自分が出来ない色んなことを思い浮かべながら、
考えをめぐらすこと。
時間すらあれば、一人部屋にこもって、
ぼんやりと窓の外を眺めながら考え事をするのが好きだった。
そして現実から逃げるように、すっかり空想癖のついてしまった彼は、
ある日いつものように熱を出して寝込んだ夜、
自分の身体がふわふわと宙に浮いているのを感じる。
「わぁ〜僕の身体、空飛んでるよ……って、あれ?
でもそこで寝てるの、ひょっとして……僕じゃない?」
それがいわゆる幽体離脱というものだと知ったのは、
彼が成長して物心ついてからのことだったが……。
「けどこの体質のお蔭で、こうやって堂々と好きな相手を見られるんだから、
ある意味しあわせモンだよね? 僕……」
その言葉通り、今の彼には自分の意思のままに魂を放浪させられる、
奇妙な癖がついてしまっていた。
要は……幽体離脱ぐせ。
一見幽霊に見える彼の本体は、
今日も自宅で病気を理由にぐっすりと眠りこけていることだろう。
その変てこりんな体質というか癖のおかげで、
アレンはこうして愛しい相手の元を訪れているわけだが、
もちろん神田の方は彼の存在を知る由もない。
「うふふ……本当に神田の睫って長いんですね?
僕もけっこう長いほうだとは思うけど、キミの場合、ペンの一本ぐらい、
平気で乗っちゃいそうじゃないですか?」
ずいと身を乗り出し、神田の顔をしげしげと見つめる。
まるで透明人間になったような優越感。肉体から開放される浮遊感。
この世の重力から開放されるということが、
こんなにも楽で素敵なものだなんて、きっと誰も思わないだろう。
「今日のお昼もまた蕎麦でしたよね?
良く飽きずに毎日食べてるなぁって関心しちゃうけど……
実は僕も学食のお蕎麦、結構好きなんです。
ただ、僕が食堂に行く頃にはいつも売り切れちゃってるし、
それに一杯や二杯じゃお腹いっぱいにならないんです……」
アレンはふざけながら、今日見た神田の日常を語りだす。
食べた物のカロリーを身体に蓄積できない体質のアレンは、
小さな体に似合わない大量の食事をする。
その食べっぷりといったら見事なものなので、
食堂の食材をほとんど食べつくしてしまうほどなのだが、
当の本人に悪気は全くない。
くったくなく思い出し笑いをする度、アレンの周りに大輪の花が飛びかう。
これが周りの人間に見えていたら、
あまりの可憐さに卒倒する者の山が出来ていたに違いない。
「けど、今日キミがもらったラブレターの数、なにげで凄かったよね。
何通ぐらいあったの?
送り主はきっと、みんな可愛いんだろうなぁ……
僕も今度、ラブレターぐらい書いてみよっか?」
自分が言った台詞にハッとして、思わず顔を赤らめる。
「あっ、でもっ、そのっ……
やっぱ男からのラブレターなんて気持ち悪いだけだよね?
普通なら、思いっきり引くもんねぇ〜あははっ……」
何気で男の子からラブレターを多量に貰い続けている彼は、
自分がそうであったことを思い出し、げんなりとした顔をみせる。
「ま、その気持ちは嬉しいというか、
真剣に好意を寄せてくれるのは有難いことなんだけど。
僕なんかのどこがいいのか……理解できないです。
昔から良く女の子には間違えられたけど、
さすがにこの年になっても女の子扱いされるのは、ちょっと困りますよね。
実際ラブレターをくれた誰かと付き合うっていうのも考えられないし……
神田は……やっぱ誰とも付き合わないんでしょ?
立場上やっぱ難しいよねぇ? ま、僕としてはその方が嬉しいんだけど……」
一人芝居の百面相。
感情表現があまり得意ではない彼が、
こうしてベラベラと喋るのは珍しいことだった。
日頃は物言わない淑やかなイメージで通っていて、
何か一言いうだけでも、周りが浮き足立つのだからなお更だ。
だから相手に自分の存在を知られずに、
こうして近くに居られる今の状況は、
照れ屋のアレンには至極幸いだった。
返ってくる返事さえないものの、
心置きなく自分の気持ちを伝えられるからだ。
普段の自分では会話は愚か、声さえかけられないだろう。
「みんなは僕のこと、大人しくて真面目な奴だと思ってるみたいだけど、
ホントは違うんです。ただ気恥ずかしくて、話しかける勇気もない……
みっともない男なだけ……」
自嘲しつつも、その瞳はうっすらと愁いを帯びている。
確かに同じ学園に居るという以外、二人には何の共通点も無かった。
かたや財閥の御曹司、自分は単なる華道家元の孫。
傍から見たらアレンの家もかなり裕福な家柄だ。
だが、世界でも上位を争うと言われる神田財閥と比べられてしまっては
身もふたもない。
神田の傍には玉の輿を狙う女生徒のほかに、
あわよくば財閥との繋がりを持とうとする男子生徒も山のようにいて、
半径5メートル以内に近づく為には、並々ならぬ努力が必要となる。
ましてや学年も違う二人は見事にすれ違うばかりで、
アレンがいくら想いを伝えようとしても、会話する接点すらない。
面と向かって神田に自分の存在を知ってもらえたら、
きちんと話が出来たら、どんなに幸せだろう。
そんなことを考えながら、アレンが神田に人知れず付きまとう
ストーカーのような日々は続いていた。
キンコーン、カンコーン。
軽快なチャイムの音に導かれ、午後一の授業が終わりを告げる。
「次の授業は……体育だったか……」
「ええっ? 体育っ?」
神田は大きく一呼吸おいて背伸びをすると、
やれやれといった様相で体操着の入ったバッグを手にする。
「着替えかぁ……いくら相手に僕が見えないからって、
流石に……マズいよねぇ?」
アレンは何を想像したのか、
ぱぁっと顔を赤らめてはもじもじとその場に踏みとどまった。
モデル並みに均整の取れた神田の上半身を思い浮かべただけで、
経験値ゼロのアレンには刺激が強すぎたようだ。
今にも鼻血を出してしまいそうなほど、頭に血液が昇ってくるのがわかる。
「やっぱり、ここは紳士らしく先回りして、
神田が体育館に来るのを待つほうが……いいよね?」
ぐっと決意を表すかのように右手を握り締めたアレンだったが……
幽体離脱までして神田に付きまとっている時点で、
既に紳士らしくないのでは?
という突っ込みは、この際しないでおくことにしよう。
するとそんなアレンの必死の決意を知ってか知らずか、
いきなり神田が更衣室にも行かずに、教室で上着を脱ぎだした。
「えっ、えっ、ええ〜っ!」
シャツを潔く脱ぎ捨てた瞬間、くっきりとした胸板が姿を現し、
アレンは驚きのあまり思わず後ずさる。
「なっ、なんでここで着替えをっ?」
アレンが慌てたのと同じように、
神田の取り巻き連中も彼の唐突な行動に驚きを隠せない様子だ。
「えっ? 神田さん、何故ここで? 更衣室には行かないんですか?」
すると神田は鬱陶しそうにしながら、ゆっくりと応える。
「あぁ? この休憩時間にテイェドォール先生に呼ばれてんだよ。
更衣室まで行ってたら間に合わねぇだろ?」
「はは……そうですよねっ!」
じゃあ僕らもと、取り巻き連中がその場で着替えを始める。
彼らは通称『黒き騎士団』と呼ばれていて、全校生徒の憧れの的だった。
神田財閥には及ばぬものの、
誰もが頭の良さ・家柄では明らかに他の生徒達より上回っている。
全員美形揃いで、一人ずつ見てもそれぞれが
芸能界デビューできそうなほど立派なルックスをしていた。
そんな彼らが一派からげで神田の取り巻きとして見られているのも、
それだけ神田が全てにおいて抜き出ているからに他ならないわけだが。
美形だらけの集団が一斉に着替えをしだす様は、
もうそれだけで圧巻だ。
『キャァ〜〜!』
教室じゅうに黄色い女生徒たちの歓声が響き渡る。
あっという間にその場は大混乱となり、
恥ずかしそうにしながらも指の隙間から着替えを覗く者、
それを阻止しながら野次馬を整理する者と、あわや大パニックだった。
たかが男の着替え。
されど神田のナマ着替え。
目の前で繰り広げられる美味しい光景に、アレンは限界を感じたのだろう。
熟れたトマトのように真っ赤になった頬を押さえながら、
上ずった声で言い訳がましく大仰に叫び出す。
「ぼっ、僕は先に体育館へ行ってなきゃ〜!」
もう完全に声が裏返ってしまって、かなり間抜けな状況だ。
アレンは慌てふためきながら、逃げるようにその場から走り出した。
その場の混乱を収拾すべく、取り巻きたちが四苦八苦している中、
神田は何食わぬ顔をしながら俯き、口元を抑えて笑いをこらえる。
「……くっ……面白ぇ奴……」
アレンの様子など見えているはずもない神田が、くっくっと笑いを漏らす。
その意味深な微笑を、その場にいた者が気づくことはなかった。
《あとがき》
……ということで、話はまだほんのさわりで、
これからまだまだ続きますv
6月29日の神アレオンリーイベント「モノクロムワールド3」
へ直参予定の新刊です♪
会場で皆様にお会いできることを心からお待ちしておりますね(*^ ・^)ノ
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